7つの物語 - 第2話

宇治茶を育んだ土地の話

お茶栽培に適した宇治の気候風土

宇治のお茶栽培は、栂尾(とがのお)の高山寺を再興した明恵(みょうえ)上人によって始められたと言い伝えられています。鎌倉時代の初め、栄西禅師から、宋より持ち帰った抹茶の喫茶法と茶の種を伝授され、その栽培場所を宇治に求めました。

宇治は、比較的雨が多い暖かな土地。近くの京都と違い、めったに雪が降ることはありません。亜熱帯植物であるお茶にとって、宇治の気候は最適でした。

その温暖な気候に貢献しているのが、『源氏物語』の「宇治十帖」に霧煙る川として描かれた宇治川です。

琵琶湖から流れ出た宇治川は、宇治の平野を取り囲むようにして伏見付近で90度に曲がり、淀川となって大阪湾に注ぎます。この流れが、京都から吹いてくる北風を遮り、宇治を寒さから守ります。また、川から発生する霧は、お茶の大敵である霜を防いでくれる天然のヴェールとなってくれます。

また宇治は太古の昔に、山城の水流によって大量の土砂が流されてできた扇状地。水はけや風通しがよく、肥沃な大地が広がっていたことも、数百年にわたって生き続けるお茶を育てるのに向いていました。

山や川が創り出した大地が、お茶にとって最良の環境だったこと。それが宇治でお茶栽培が盛んになった一番の理由です。

大日本物産図会 宇治茶製之図 (山城国二) (宇治市歴史資料館所蔵)

宇治が発明した抹茶、煎茶、玉露

宇治茶が発展したもう一つの理由に、京都に近かったことが挙げられます。

天皇や将軍、公家などが暮らす京都は、お茶の一大消費地。時の権力者から庇護を受け、茶の湯でも独占的に用いられたことが、宇治でのお茶づくりの大きなモチベーションになりました。そして常によりよいものをつくろうとしてきたことが、抹茶、煎茶、玉露という日本茶の歴史を大きく変える三つのイノベーションを起こしました。

最初のイノベーションは、「覆い下栽培(おおいしたさいばい)」による日本特有の抹茶の誕生です。

覆い下栽培とは、新芽が出る春先に茶園全体に覆いをかけ、光を遮って育てること。覆いのなかで芽吹いた茶葉は、濃いうまみを蓄え、透き通るような緑色になります。もとは霜の被害を防ぐ工夫でしたが、それが日本ならではの冴えわたる緑の抹茶を生み出しました。なお、これまで覆い下栽培は16世紀に始まったとされていましたが、奥ノ山茶園を調査した結果、15世紀前半にはすでに行われていた可能性が指摘されています。

二つめは、江戸時代半ばに発明された煎茶です。宇治田原で製茶業を営んでいた永谷宗円は元文3(1738)年、明から伝わった釜炒り茶をヒントに新しい製法を考案。それは、茶葉を蒸したのち、焙炉(ほいろ)で炙りながら揉んで乾燥させるというもの。煮出して飲む茶色いお茶とは異なり、香りよく、甘みのある淡い緑のお茶は「宇治製煎茶」と呼ばれ、江戸を皮切りに全国へと広まっていきました。

三つめは、煎茶の発明から約100年後に誕生した「玉露」。玉露は、覆い下栽培と宇治製煎茶の製法を組み合わせたもの。宇治オリジナルの栽培法と製茶法が掛け合わされ、ここに最高級の緑茶として結実したのでした。

大地の恵みと地の利を生かし、より美しく味わい深いお茶を求め、切磋琢磨した先人たち。800年の時のなかで宇治茶を育んできたものは、宇治の自然と人でした。

宇治の茶摘乙女(宇治市歴史資料館所蔵)
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