堀井七茗園 7つの物語 - 第3話 - 堀井七茗園の歩み

第3話

堀井七茗園の歩み

社名に刻んだ茶園の物語

堀井七茗園は、宇治平等院のほど近く、暗夜の奇祭で知られる縣神社の門前にあります。

創業は、新しい時代が幕を開けたまもない頃。明治12(1879)年、二代目堀井房吉が横浜で開かれたお茶の品評会「第一回製茶共進会」に「松風」と名づけたお茶を出品しました。それが公に残る最初の記録のため、この年を茶商・堀井七茗園の創業年と定めました。

社名は、私たちが大切に育てている「奥ノ山茶園」に由来します。

宇治市歴史資料館蔵

かつて宇治には、「宇治七茗園」と呼ばれる七つの茶園がありました。室町時代、足利将軍が宇治茶を気に入り、七つの茶園を指定したのが始まりと言い伝えられています。それらの優れた茶園は「森、祝、宇文字、川下、奥の山、朝日に続く琵琶とこそ知れ」と和歌にも詠まれ、宇治茶の名を広く知らしめました。

しかし近代以降、都市化によって平地にあった茶園は一つ、また一つと消えていきました。そして唯一残ったのが、丘の上にあった茶園――私たち堀井七茗園が明治時代中期に譲り受けて以来、大切に守り育ててきた「奥ノ山茶園」でした。

石碑 「奥ノ山 宇治七名園之式」

600年の時を超え、今も栽培を続ける茶園。それは宇治茶の生ける歴史です。今では消えてしまった六つの茶園の面影を受け継ぎ、唯一残った茶園を守り、育てる。そんな思いが、私たちの社名「堀井七茗園」には込められています。

産地とともに宇治茶を守り、育てる

私たちは創業以来、いつの時代も産地とともに歩んできました。その一例が、三代目堀井長次郎が考案した「堀井式碾茶乾燥機」です。

明治時代に入り、宇治の茶業界は大きな危機を迎えていました。将軍や大名の庇護はなくなり、製茶の機械化が進むなか、宇治の特産である抹茶原料の製造は依然として手作業が中心でした。そこで三代目堀井長次郎は宇治の未来を見据え、抹茶の原葉である碾茶を製造する工程の機械化に取り組みます。そして大正13(1924)年、苦心の末に「堀井式碾茶乾燥機」を完成。この乾燥機により、ムラのない均一で良質な碾茶を短い時間でつくれるようになりました。

「堀井式碾茶乾燥機」の模型
山本宅 (昭和元年製作 堀井式碾茶乾燥機2号)

長次郎はその技術を独占せず、近隣に広めました。既存品を超える良質な抹茶がつくれるようになったことは、宇治の名声をより高め、新しい時代を切り拓くことにつながりました。現在に至っては、国内で使われている碾茶乾燥機がすべてこの機械を原型としています。

産地の発展がなければ、宇治茶の品質を守り、向上させることができません。そのために、私たちが常に二つの仕事を柱としてきたことは重要な意味があります。

一つが、自らお茶を栽培し、製造加工、販売まで一貫して行うこと。もう一つが、茶農家から仕入れたお茶を選別、加工、合組(ごうぐみ・ブレンドのこと)して仕上げ、販売すること。

かつて宇治の茶商は、今の私たちと同じように自ら茶園を持ち、生産から販売まで手がけていました。しかし時代とともに茶農家と茶商の分業が進み、自社の茶園を持つ茶商はごくわずかとなりました。

私たちは、お茶を育てる生産者であり、お茶をつくる職人でもあり、美味しいお茶を人々に届ける目利きでもある。宇治茶のすべてに携わる者だからこそ、伝えられるものがあると自負しています。

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