社名に刻んだ茶園の物語
古くは9世紀に遣唐使によって、また12世紀末に禅僧の栄西によって、中国からもたらされたと伝えられるお茶の種。以来、日本では長く種をまく「実生栽培」が行われてきました。
花が咲き、実がなり、種になる。その種をまいて、また育てる。長い繰り返しのなかで、各地の気候風土に合った在来種が育まれていきました。
ただ一つ、難点もありました。それは、茶樹は自家受粉をしないため、種から栽培すると、少しずつ性質の違う木が育つこと。収穫時期や品質にバラつきが出てしまいます。そこで昭和初期から、挿し木苗で同じ木を増やす栽培法が試みられるようになりました。挿し木の栽培技術が確立され、茶園の品種化が本格化するのは戦後になってからです。
奥ノ山茶園は昭和50年代まで、在来種の茶園でした。
当時は2000本ほどの木が、自然な形で島状に植わっていました。それらの木々は、いわば宇治茶のルーツともいうべきもの。長く大切に守り育ててきましたが、いよいよ老齢化が進んでいました。また、木によって収量に差があり、能力給のお茶摘みさんたちにとって、どの木を担当するかで不公平が生じるのも問題でした。
そこで五代目堀井信夫は、茶園の改植に踏み切ります。しかし、せっかくこの地で受け継がれてきた在来種を絶やすことはしのびない。そう思い、当時植わっていた在来種のなかから、優良な茶樹を選んで後世に残すことにしました。
現在の「奥ノ山茶園」の様子
20年かけて生まれた「成里乃」と「奥の山」
研究所や大規模茶園でもなく、個人で品種を見出すこと。それは途方もない作業でした。
選定に取りかかったのは1981年。それから毎年、五代目信夫は茶園にあるすべての木を細かく観察しました。当時の手書きのノートが残されていますが、味や香りはもちろん、新芽の数や重さ、収量まで細かく記されています。
2000本のなかから数年ごとに58種、24種、8種と少しずつ絞り込んでいきました。そして1994年、最終候補の2種を決定。それらを試験的に栽培し、2002年、ついに品種登録を果たしました。品種選抜に取り組み始めてから、じつに20年後のことでした。
こうして誕生した宇治在来のオリジナル品種が、碾茶向きの「成里乃」と玉露向きの「奥の山」です。
「成里乃」は、うまみの成分であるテアニンが従来品種の2倍ほど含まれる一方、渋みや苦みの成分であるタンニンやカテキンは低く抑えられ、喉越しよく濃厚でまろやかな味わいが特長です。一方、「奥の山」は、信夫が「天然玉露」と呼んだほど、緑濃い葉に穏やかなうまみが凝縮されています。
2010年には、「成里乃」が奈良で行われた第64回全国茶品評会で念願の日本一農林水産大臣賞を受賞しました。室町時代からの遺伝子を受け継ぐ茶樹で日本一になったことは、私たちの誇りです。
奥ノ山茶園の一画には、今も樹齢400年を数える「奥の山」の原木が残っています。大地深くに根を張った茶樹は、永遠ともいえる命を得ます。美味しいお茶が収穫できるのは樹齢100年ぐらいまでですが、私たちはその古木を今も他の茶樹と同じように手入れしています。なぜなら、その姿は、お茶と大地のつながりを思い起こさせてくれる大切なものだからです。
いまも現存する推定樹齢400年の母樹